アメリカの好景気 狂瀾の1920年代2
クーリッジ大統領の就任により起動したブルマーケット
この頃第一次大戦後の戦争債が満期を迎え、償還金の多くが新しい投資に向けられていました。
ラジオ、電話の所有世帯数が爆発的に増えました。
さらに自動車を購入する世帯も増えてきました。
しかし、富の格差は著しく平均年収は1500ドル以下(今換算で37000ドルぐらい)だったのです。
これらの消費物資を買うにはこれまで以上にクレジットを利用しなくてはいけませんでした。
借り入れに対する需要が高まり高利貸し業も生まれました。
クーリッジ大統領自ら「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」と名言(?)を残しています。
【進む株式への投資】
もはや税と愛国心が無関係になりつつあり、税に対する意識が薄れ、組織だった脱税も行われるようになりました。
その1つに相殺取引がありました。
共謀した投資家同士が低価格で株を売買しあいます。
実際には相殺されているが、儲けを隠して損失だけを表面化させると、それが税の控除対象になったのです。
株式市場で投機することが脱税の方法になってきたのです。
庶民の間でもやがて株式が銀行への預金の代わりとなっていました。
銀行は市場に株式購入の資金を貸付て、その担保として株式を受け入れていました。
銀行は「売らんがな主義」に暴走。
過剰な投機は富のバブルを作り出し、借金で成り立った繁栄の感覚を生み出していったのです。
【無力のFRB】
この事態において、経済の安定を維持するためにすでに設立されていた、FRB(連邦準備制度理事会)は何をしていたのでしょうか?
1.そもそも国のトップであるクーリッジ大統領(共和党)が、金融市場には干渉しない方針だった。
2.FRBを構成していた連邦準備銀行の中でも最高の地位を占めていたニューヨーク連銀。
その総裁ベンジャミン・ストロング自ら、イングランド銀行総裁モンターギュノーマンとの協力関係の中でドルの低金利政策を行っていた。
イギリスの利点
イギリスの金本位制復帰と金利上昇なしにポンドの通貨価値をたかめ、安定することができた
アメリカの利点
海外の通貨不安とアメリカ国内の景気後退懸念を払拭することができた。
3.金融界、産業界はFRBの活動を封じ込めるため市場介入反対運動グループを結成。
公式、非公式の場問わずロビー活動を重ねていた。
以上のことよりほぼその発言力は無力だったようです。
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【遅きに失する引き締め】
それでも、
実はストロングは1928年10月に病死するのですが、それより少し前からFRBは金利を3.5%→4%→4.5%→5%と引き上げていて、他界後はさらに本格的な引き締め政策に転じています。
しかし1928年、さらに株価が急上昇する中で、じつは自動車や建築業界はすでに下降の兆しを見せていたのです。
金利に敏感なこれらの業種にとって、この急激な引き締めは明らかなマイナス材料となってしまいました。
1928年、FRBはようやく引き締め政策に転じたのですが、この頃の株式の信用取引(金融資産や保有株式を担保に銀行からお金を借りて株式取引する)の貸付金利はなんと12%以上に達していました。
この高金利のコールマネー市場を目指して世界中から資金が殺到。
この資金を使ってさらに投機家たちが株価を押し上げていったのです。
こうしてアメリカは運命の1929年を向かえることになります。
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