アメリカの好景気 ”帝国”の18年間1

2019年2月22日経済アメリカ経済の歴史

X軸に年時、
Y軸に1970年以降のダウ平均株価
を配したグラフを頭の中で作成してみます。

憂鬱な1970年代から1982年の7月まで、ほぼX軸に並行な直線が引かれます。
(ずっと停滞したままということですね)

しかし、1982年の8月から、角度が10-15度ほど上がる直線が、1995年から1999年まで、さらに45度の急角度で傾きが上がる直線が引かれることになります。


現在のニューヨーク証券取引所です

その間に、
1987年10月のブラックマンデー
1997年8月の大暴落がありました。

しかし
1982年の8月(底値約770ドル)から
1999年の12月(高値約11,500ドル)までの18年間、
ダウ平均株価はずっと上昇トレンドに乗った
脅威の上昇を続けます。

 

【インフレとの戦い】

1980年代初頭、70年代からの重度のインフレは続いていました。

物価上昇率は15%を超えました。
アメリカの産業界の競争力は低下しっぱなし。
FRBはそのインフレとの戦いに明け暮れていました。

カーター大統領からFRB議長に任命された
ニューヨーク連銀総裁だったポール・ヴォルカーは、銀行が生み出す信用の総量をコントロールするため、政策金利を20%の極限まで引き上げていました。

しかしそれにより市場ではベアマーケット(弱気相場)の深刻度が増加します。
インフレを押さえながら一方で投資を促すというのは、難しいことだったのです。

ただ、インフレと戦うFRBの仕事ぶりはそれなりに評価されていました。
しだいにFRBが金融業界を支配していくことになります。

 

【レーガン大統領の政策】

そんな中、1981年に共和党のロナルド・レーガンが大統領に就任します。

「強いアメリカ」復活を掲げ、強権外交を展開。
減税、規制緩和、社会保障費削減に乗り出します。

まず同年、大幅な減税を目的とした経済再建租税法を成立させます。
しかしこれにより記録的な財政赤字を引き起こしました。

よって翌年1982年、課税の公平と財政責任法でいきなり課税に転じます。
さらに1984年に法人税も上げました。

さらに1982年メキシコの金融危機が勃発します。

この状況でどうして1982年から株価が上がり始めたのでしょうか?

 

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【ブルマーケットの起動】

まず
メキシコの金融危機によって、債権残高がある銀行の危機を救うという名目でFRBが政策金利を引き下げたこと。

アップル・コンピューターを筆頭とする新興のパソコンメーカーや
コンピューターのソフトウェア開発業者を始めとする、ハイテク株が市場を引っ張り始めたこと。

そして1982年3月のルール415の登場が挙げられます。

それまでは1933年の証券法に従い、企業が市場から資金を調達したい時
       ↓
(企業から指名を受けたい)引受業者が20日間内に引受けシンジケート団を募りSECに登録する
       ↓
登録されたシンジケート団が株券、債権を一括して買い取ったあと一般に売り出す

というスキームでした。
SEC(米国証券取引委員会)

時間がかかる非効率さがネックになっていました。
ルール415は
資金を市場から調達する予定を、まず企業が自らSECに登録できるようにしました。
資金を必要としたとき即座に株券、債権を発行できるようにしたのです。

シンジケート団を組織する余裕もなくなった引受業者は、非正規で証券を全額買い取る約束を企業と取り交わしてから、引受けシンジケート団を組織することになりました。

この一括買取り引き受けが市場を活性化させることになりました。
資金調達を希望する企業が市場にアクセスし易くなったからです。
日本やヨーロッパの金融機関も参入することになりました。

合併買収(M&A)ブームも再び起こり始めました。

インフレによって新規事業をゼロから起こすのはコストがかかります。
既存の企業を買収したほうが安上がりだったのです。

そして最も重要だったのが、
汎用大型コンピューターの発達と、それによって次から次へと生み出された、ウォールストリートがこれまで体験したことのない新たな金融商品の出現だったのです。

以上のような要因が1982年以降の株価上昇につながります。

 

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続く

 

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